孤独について(4)~ 人は「同調」なしに「共生」できないのか?

December 30, 2019

もちろん出来る。 ~ ただ前提として、「共生していく」という相互のコンセンサスが必要なだけだ。そのコンセンスが難しくなってきているのだ。

 

昔、私が子供のころ、職住が接近しており、私が住んでいた家の周りでは、父親が子供のころの人間関係がそのまま保持されたままの大人のコミュニティが形成されていた。うちの父親を始めとして、周りには家業を継いだブルーカラーが多かったし、職人気質で頑固な人、血の気が多い若者たち、彼ら同士の衝突はカジュアルにあった。ただ、今と違うのは、基本的にずっとそこでいっしょに暮らしていくという大前提があり、そこには仲が悪くとも「共生」のコンセンサスがあったと思う。うちのおやじも近所の食堂のオバちゃんとしょっちゅう喧嘩していたが、別にそこにメシを食いに行くことを止めることはなかった。その意味では、今ほど衝突を恐れずに生活できていたと思う。人々はのびのびと振舞う一方で、孤独になることもなかった。

今と違って、子供ももっと大人に合わせて生きていたようにも思う。父親は絶対的な存在だったし、家の仕事を手伝っている子供は普通にいた。子供向けの催しやお店、テレビ番組といったものが今より極端に少なく、たまに映画の上映会の様なイベントがあっても、大人向けの時代劇映画ばかりだった。あらゆる意味で、社会は「大人」を中心に回っていた。

 

ビートルズの登場あたりを境に、「若者文化」と言われるものが興り、だんだん「若い」=「価値」という考え方が当たり前になっていく。大人を頂点としたピラミッド構造が反転し、社会が豊かになるに従い、若者たちは「自由」を獲得していく。

 

しかし、この「自由」は「孤独」の別名だ。(→ あっち側とこっち側が同じ側になる瞬間と、その後に。)昭和、平成を通して、世の中は並行してホワイトカラー化が進み、それに従って職住接近というライフスタイルも消滅していく。近所同士の関係も変質していき、同時に、家庭の舞台は、都市部から郊外へ移っていく。職場に縛られない「住」の流動性の進行とともに、昔から続く「共生」を前提としたコミュニティは分裂する。地縁性を前提にした、共に過ごした長い時間から生まれる歴史と関係の文脈の裏打ちを無くした人間関係では、「共生」のシステムはいきおい脆弱なものにしかなりえない。

 

その共生を成立させる前提として「同調」がフォーカスされていく。気が合うか、合わないか。合わなくても、合わせられるか。そこには継続的な地縁の歴史・時間といった文脈が欠落している分、「今」だけの「同調」であり「共生」にしかなりえない。子供も、親の仕事を手伝うどころか、現在では親の働く姿を見る機会自体すら、ほぼ無いだろう。過去からの連続性を前提とした「共生システム」そのものが無くなっているのだ。そして、それを補完するものが個々人の趣味嗜好や意見を前提とした「同調」となっている。これは大変心もとない状況で、共有できる価値観というものがそもそも限定的である。いきおいその同調のための価値観は、重箱の隅をつつく様な「絶対善」の衣をまとった「白い羊の群れ」の様相を呈し始める。獲得された「自由」を前提に「共生」しようとすると、結局同じ価値観で縛りあってしまい、おいそれと発言できないような「不自由」な状況に至るというパラドックス。

やはり、こういった「共生」の姿は、自分としては積極的な評価できないナ・・・と考えていると、年末の「ゲスの極み乙女。」のライブで考えさせられることがあった。

 

 

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