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平手のロケンロール。

台風が近づく雨の午後、会社を半休とって、ガラガラの映画館で前から気になっていた映画を観た。平手友梨奈・初主演映画「響-HIBIKI-」

特段、平手さんのファンと言うわけでもないのだが、この映画、予告編を観て妙に気になっていた。

で、映画を観て、気になっていた理由が何となくわかった。この映画の主人公、私のカルチャーヒーロー、キース・リチャーズを思い出させるのである。

左のビデオは、1981年のローリングストーンズのライブで、突如ステージに乱入してきたファンを、キースがテレキャスターで殴り、また何もなかったように演奏を再開する、というシーン。

後日、キースはこのときの心境を「ステージの上はオレの領分だ。ジャマするやつはぶちのめす。」と語る。

当時大学生だった私はこのビデオを観て「お~、キースはロックしてるな~。」と、妙に感動した。 ~ 多分、ロックの長い歴史の中で、最も「ロックしている」映像だろうと思う。

で、「オレの領分に踏み込むヤツはぶちのめす。」は、この映画「響-HIBIKI-」にも通じるテーマだ。

出版不況と言われて久しい文学界に突如現れた天才少女。しかし彼女は、徹頭徹尾社会や周囲の人間関係に興味を持たず、独立した個人としての価値感とそれに基づいた判断をし、何かあった時の自分なりのケリの付け方についても、全てにおいて周囲を頼ったり迎合したりすることが無い。出版不況の閉塞感ででモンモンとしながらも、話題作りやマーケティングにセッセと精を出す(それはある種、周囲におもね、迎合する行為でもある。)出版社が見つけたスターが、実は周囲に迎合することが無い、ブレない強烈な自我、更に、暴力性とある種の爽快さを併せ持った娘であったという、この逆説が物語の構図だ。

キースが誕生した時代は、社会は大人の文化に占有されていて、そこに若者なりの価値感を持ち込むことで既存勢力と闘う、「不良」とその「連帯」という分かりやすい構図があった。

現在創作者である個人が戦うべき対象は、何かあればイナゴの大群の様に攻撃し炎上するSNSだったり、煽るマーケティングを展開するマスコミだったりするわけで、ある意味、敵や仲間が分かりにくく見えにくい時代になっている。そんな現代において、創作者とるべきスタンスとは? ~ 創作者は、キース以上に過激に、孤独に、ロックしなければならないのだ。わりと深い映画だと思います。

しかし、この映画の平手友梨奈さん、これ以上に響役にピッタリな人、いないでしょうね。凄い存在感です。

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