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皆既月食と、浜口陽三。

1月31日 夜8時半、カメラを三脚に取り付け、自宅から長い坂道を上ったところにある、割と大きな貯水池のある公園で、三年ぶりの皆既月食の開始を待ち構えていた。

皆既月食の赤い月を見ると思い出す画家がいる。我がふるさと・和歌山が生んだ版画家「浜口陽三」だ。

小学5年か6年だったと思う。 ~ 学校のそばに美術館があった。文化会館に併設の田舎の小さな美術館で、企画展主体の運営で入場無料のことが多く、絵が好きな子供だったわたしは学校帰りに寄り道してはよく絵を観ていた。そこで初めて浜口陽三の作品に出会う。

他に人がいないガラガラの館内、白く無機質な美術館の壁に並ぶ、黒地に鮮やかに浮かび上がる赤いサクランボ。 不思議に静寂感にあふれた絵だった。

ある種幾何学的とも言えるほど、抽象的に図像化された赤いモチーフは、その抽象性とは真逆の、写実的とも言えるほどの実在感があった。他に誰もいない展示室でただ一人、こういった作品に囲まれた空間体験は、子供ごころに静かな、しかし、強烈な印象を刻み込んだ。~ いまの様に、興味を持ったことを掘り下げて調べる習慣が出来ていない時期の体験であったため、これらの作品を創ったのが、浜口陽三という和歌山県出身の版画家であると言うことを知るのは、ずいぶん後のことになる。

時は流れて2014年、まだ慣れてないオリンパスのマイクロフォーサースに、300mmズームを装着し、皆既月食の撮影を試みた。このシステムだとフルサイズ換算で600mmになり、かなり大きく月を撮影できる。で、このとき初めて皆既月食というものをまじまじと観たのだが、その神秘的な赤い月を観て、急に浜口陽三を思い出した。浜口は、皆既月食を観てインスパイアされ、この赤いモチーフの連作に取り組んだのではないか ~ 漆黒の空間に浮かぶ、不思議な存在感をたたえた赤い物体。それほど、サクランボと赤い月は似ていた。

その後、2009年に和歌山で開催された「浜口陽三生誕100年記念展」の図録を入手し観てみると、赤い月を表現した様に思える作品もあった。

わたしには実証のしようもないのだが、皆既月食の月の印象そのままのように思える。

今日は、それから3年ぶりの皆既月食だ。前回はまだ撮影スキルが追いつかず、露光オーバー気味の写真しか撮れなかったが、今回はチャンと撮れる自信があった。 ~ しかし、あいにくの曇り空、欠け初めの様子はなんとか撮れたものの、完全皆既状態になった月の弱い光には、雲を突き抜けて輝くパワーが不足していた。肉眼で観たらかろうじて位置が分かる程度に薄ぼんやりと確認できるのだが、カメラの液晶越しでは分からない。ましてや、ズームレンズ、ちょっとした軸のズレで被写体がフレームアウトしてしまい、こうなるとファインダー越しに被写体を見つけるのに大変な苦労をする。最後は、え~い、ままよ、と、ばかりにカンにたよって長時間露光することで、肉眼では見えない赤い月を撮ろうとし、なんとか一枚押さえることが出来た。

露光時間が長かったので、その間月も惑星運動で移動したため、多重露光の薄ぼんやりした締まりのない画像だけれど。

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