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小説家はいちばん書きたいことを隠して書く。

先日息子が二十歳になった。親子そろって五月生まれで、誕生日が近いのである。

八年前中学に入って間もないころ、彼は国語の先生から課題図書として三島由紀夫の「潮騒」を与えられた。ところが読んでも話の展開が当たり前すぎて、何の感慨も持てない、感想文が書けない、と、言ってきた。 ~ まるで私が初めて漱石の「三四郎」を読んだ時の様である。

私自身も「潮騒」を初めて読んだとき同じような印象を持ったが、息子と違うのは、作者と同じ時代を生きていたことだ。私が小学生の時三島由紀夫が割腹自殺するまでの短い時間ではあるが。新聞を開くと公害と学生運動の記事ばかりの、あの時代の「潮騒」である。

親子三代東大卒の官僚の家系、役人と作家の二足の草鞋を履く天才、エリート、生粋の都会人、の彼が書くにははあまりにユートピア的な世界で、もう一つの代表作「金閣寺」と比較しても、同じ作家のものとは思えぬほど楽天的に過ぎる様に感じた。しかしそういった時代背景を視野に入れ、彼にはあえてこの当たり前の話を書く理由があったのでは、と考えるととたんにこの小説が違って見えてくる。

私は息子にこの本が書かれた時代の話をして、便利な社会を実現すべく作られた『都会』に住む人たちは新たに発生した問題にいら立っており、一方不便だけど田舎で昔ながらの生活を続けている人たちは前向きに健やかに生きている。この「便利だけど不幸せ」と「不便だけど幸せ」という対比を書きたかったのでは? 主人公二人と、都会から帰省している千代子との対比にそんなカンジがよく出ている ~ みたいな話をした。

息子は何かひらめいたのか「解った!」と言って、感想文をサラサラとまとめて提出。結果、先生からは「キミが学年で一番わかってる!」と褒められ、理想的な読解例としてプリントされ配られることとなる。私は少し後ろめたい様な気がしたが、これが数学の問題を教えたのであれば世の中に良くあることだし多分なんの後ろめたさも感じないだろうから、「なら、国語も教えて何が悪い!」と、開き直って自分を納得させた。

しかし「キミが一番わかってる!」って、ふつう一般の読者は「潮騒」読んでこんなこと考えないでしょう。三島さんも国語の先生も、むつかしすぎ。

   ~「小説家は、いちばん書きたいことを隠して書く。」(「謎とき 村上春樹」 石原千秋 光文社新書)

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