岡崎京子の”リバーズエッジ”が映画化された。

実は、この”リバーズ・エッジ”、岡崎京子好きのわたしが二十年以上前の初読で違和感を覚え、現在まで引っかかり続けている作品なのだ。そもそも岡崎京子は、シリアスで深い意味をもった内容を、あくまで軽く、コメディタッチに昇華するタイプの漫画家だと思っていたが、これは最初から最後までシリアスな作品だ。こころの闇や絶望感を表している様な夜の河原の風景が、延々と続く。 ~ 河原に死体を発見し、それを「秘密の宝物」にしている同性愛者の少年と、その秘密を共有することで生まれる主人公の女の子との心の交流の物語だ。登場人物は、誰もがある種の不幸や心にキズを負っており、読み進むにつれ、そこから来る鬱屈した感情がマグマの様にたい積、加圧されていき、最後には悲劇的で暴力的なカタルシスに至る物語。(脇役ながらも、だんだん壊れていき最後は焼死する女の子を演じた森川葵の演技は素晴らしい!です。)

1994年に書かれたこの作品を、翌年の、地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災がそのリアルな現実がもつドラマチックさで物語を軽々と凌駕してしまう状況を予言したものと読み換える人も多い。

 

しかし、である。「なんで"死体"なのか」。死体を宝物と呼ぶ少年は「これを見ると勇気が沸いてくるんだ。」と語る。執拗ないじめにあい、閉塞感に満ちみちた日常のなかで、彼はこの死体を心の支えにして生きている。 ~ 死体は何かのメタファーだと思うのだが、それが何なのか。明確に自分の中で整理・言語化できないままに二十数年が経過した。

 

今回、映画化される過程で、当然、脚本家、監督、そして何より演じる役者たち本人が、本に書かれた状況を解釈し、その結果として、演技が、撮影が、編集が、演出が、なされる。演じた彼らが”死体”をどう解釈したのか? 私の興味はそこにあった。

 

映画館で売られているパンフレットはもちろん、岡崎京子の、特にこの作品の、信奉者は多く感想や批評めいたものは世に数多くあり、それらを映画を観た後片っ端から読みあさった。結果、どうも「どんなに生きづらさを抱えて日々過ごしている人にも、あるいは、他人を生きづらくしている加害者にも、死は絶対的に平等に訪れる。その象徴が死体で、生きづらい少年はそこに救いを見出したのだ。」との意見が圧倒的に多い。 ~ なるほど、少年の友人で死体のヒミツを共有しているモデルの少女が死体を初めてみたとき「ザマアミロって、思った。」との発言とも符合する。「ザマアミロ」の対象は、当然、彼女を生きづらくしている人々や世の中だ。すごく分かりやすい解釈。

 

しかし、しかしである。岡崎京子は、死体=死というものを絶対的なものとして置き、それ以外のものを、うたかたなものとして対置して物事を語る様な人に思えないのである。

 

岡崎京子の態度には「全てを平板に、フラットに配置する」ことで、あらゆる神話を脱構築することにこそ、その真骨頂がある様に思えるのだ。売春、麻薬、レイプ、ワニに生きた子犬を食わせる、といった社会通念上眉をひそめたくなる、あるいは、およそ語るもおぞましい事件たちを、日常と並列に扱った作品が多いのはその証左だと思う。彼女なら、死=死体 すら、特別扱いせず日常と並列に扱ったと思うのだ。 ~ 多分、わたしの引っかかりここにある。

 

当の岡崎京子へのインタビュー。「作者としては、『なぜ死体なんですか?』問いかけられても『よく分かりません』としか答えようがありません。」*1

 

やはり20年後も謎は解けない。

 

*1 ユリイカ 1994年 臨時増刊 「ある過剰とある欠如としての」

 

 

 

 

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February 2, 2019

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