8月17日 乃木坂46・大阪3daysのなか日、彼女らのライブを観る事が出来た。

もう、半世紀の付き合いになる小学校からの同級生(昭和34年生まれ・今年58歳)と、おっさんコンビを組んで観に行った。

来ているお客さんは、基本、オシメンのタオルを首から下げ、ステイックライト(スイッチで色が変わる。11色!)を両手に持ち参戦している。正直、アイドル系のライブというのは初めてなので、少し気後れしながら、とりあえずスティックライト一本だけ買って入場。

お客さんも乃木坂のメンバーもエネルギーがすごい。テレビで見たら光速ダンスのインフルエンサーの振り付けも、めくるめく生の演出の中では普通に見えてしまう。(しかし、乃木坂でこのエネルギーなら、ももクロのライブなんか、どんな状態になってるのかな。)

彼女たちの楽曲は、歌詞を聴かせる楽曲だと思う。音の構成はシンプルな4つ打ちのリズムの上に、ハモりなしの単音のメロディをメンバー全員で歌う。この手法は、古くは中世の「グレゴリウス聖歌」でも使われており、教会で信者に神の言葉を伝えるのに使われた。大勢で単音で歌うと、自ずと歌詞が明瞭に聞こえる様になる。

 

 

あと、彼女たちの歌には「僕」という一人称が頻出する。女の子なのに「僕」である。最初、単純に作詞している秋元さんが男だから、とか、男の子を主人公にした歌詞のほうが男子ファンの共感がえやすいから、とか、勝手に考えていたのだが、今回のライブで明瞭な歌詞を聴いているうちに、「僕」は彼女たち自身も指していると感じた。 ~ 昔、おニャン子のメンバーが自分のことを「渡辺は」「国生は」「河合は」みたいに、自分を「姓」で呼んで話していたいたことを思い出した。自分をあえて一人称で呼ばずに自己相対化することで、キャラクター化させるという。

 

自分を「僕」と呼ぶ少女には、明らかに内省的な自己操作の意思を感じる。「あたし」と言う言葉には無い、どっぷり自分に浸かってしまわないクールで内省的なスタンス。生身の自分自身と距離を取って、1つのキャラクターとして成立させるという。で歌詞はさらに「僕」から「僕ら」へと変化していく。この段になって、「僕」が指していたものが、「彼女」からファンである「彼」を、「僕ら」は「彼女ら」から「彼ら」を包含した「僕たち・私たちみんな」となっていく。最初、物語の一キャラクターとして描かれた世界が、共感の輪が大阪城ホール全体を取り込んでいく。こと、ここに至っては、「僕」が誰を指していたかは大きな問題でなく思えてくる。 ~ ちょっと、文学的。この話、真面目に論じるにはもう少し秋元さんの書いた歌詞をつっこんで読んでみないといい加減なことは言えないし、話し出すと長くなりそうなので、また機会があれば。

 

「僕」と言う一人称はクールな齋藤飛鳥さんに使ってもらいたいな。でも、彼女あんまり自分を作らないみたいだから、無いかな。似合うと思うのだが。~ しかし、なんか、彼女を見ていると、自分が、ステキな女の子にドキドキしている中学生か何かに戻ったような気分になる。かくして、美少女アイドルグループのパフォーマンスを観終わったおっさん二人は、中学時代のクラスメートの話をしながら、夜の京橋に向かうのであった。

 

         *注;大阪の京橋です。簡単に言うと東京の新橋みたいなとこです。東京の京橋とは似ても似つかないところです。

 

 

 

Please reload

Recent Posts

February 2, 2019

Please reload