STOP MAKING SENSE!
前回、「潮騒」について書いた。で、三島由紀夫の作品といえば、忘れられない衝撃を受けた作品があるので、それについて書いておきたい。「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」からなる「豊穣の海 四部作」 ~ 「天人五衰」は三島の遺稿でもある。
天皇制、愛国主義、宗教、といった「大きな物語」の中で生きていく人間、その主人公たちは最後には非業の死を遂げ、時代は移り変り、そこにまた輪廻思想が絡まり、物語の語り部がまた法曹界という権威(これも、大きな物語)を背負う人物という、なんとも重層的な構造の建築やオペラを観る様な複雑な絢爛さをもった作品である。
しかし、最終章の最後の最後にその「物語」が、重層的に重ねられてきた「意味」が、瓦解しぽっかりと穴の開いたように「庭は夏の日ざかり日を浴びてしんとしている。……」ところで話は終わる。
三島由紀夫が割腹自殺したのは私が小学五年生の時で、学生運動とか公害問題とかとにかく世の中が騒がしい時代だった。そんな「騒がしい時代に、騒がしく死んでいった人」というのが、小学生だった私が彼に持った最初の印象だった。
自衛隊市ヶ谷駐屯地、盾の会、軍服(当時は「ミニタリールック」と言った。)、檄文、割腹自殺、介錯された首 ~ 彼の最後はものすごく様式化されており、ある種そんな芝居じみた行為ともとれる「意味づけされた死にざま」を完遂した人物が、現場に向かう直前に出版社の送ったのがこの「天人五衰」の最終回の原稿である。この最終章に描かれているシーンと、報道された三島事件の現場のシーン、ここには大きな乖離がある。そして、その乖離した両方の世界を生んでいるのは三島由紀夫ひとりなのだ。
「意味なんてない」と。~ 彼は単純な軍国主義者などではない、もっと、繊細で明晰な頭脳とセンスをもった人物であったということに気が付いたのは、もう30を過ぎたころだった。 ~ 割腹自殺と同じ重さでこの最終章を考えないことには、彼の正しい理解へと到達できない。
三島由紀夫を、少しだけ正しく理解するきっかけになった本。