J-POP in the '80s⑨ : まとめのようなもの~中山美穂を久しぶりに聴いて、考えたことなど。
この4ヶ月、80年代ミュージックについて、当時の事を思い出しながら感じていた事、また、今聴いて感じた事などを書き散らしてきましたが、最後の最後に中山美穂を聴いていて気がついた事があり、それを書いてこの4ヶ月のまとめに代えたいと思います。かなり理屈っぽくなりますから、興味のある方だけ読んでください。
ぼくらが高校生だった70年代、音楽業界では、「今、50年代のチャック・ベリーやプレスリー、60年代のビートルズの様な絶対的なヒーローがいない。ヒーロー不在のこのまま、70年代は終わっていくのか?」という論議が良くされていた。しかし、今思い返すと、グラムロックに始まり、プログレッシブロックやパンク、インストロメンタルも含めたフュージョン、クロスオーバーなどなど今まででは考えられないくらい、音楽の表現の幅が豊かに拡がった時代だったと思う。豊かさはバリエーションであり、豊かであれば多様化こそすれ、逆に絶対的なものは生まれにくい ~ そういう時代だったということだ。で、その流れの中で始まった80年代、70年代に豊かな音楽表現を経験した世代がフロントに立ち出したとき、それら表現手法を縦横に駆使する世代が生まれ始めた。そのもっとも過激な例がデジタル・サンプリングであり、また、わかりやすい事象がDJという自分では何も生み出さないが、選曲の組み合わせだけでセンスを主張する職業の登場だ。日本選曲家協会という団体も発足した。
中山美穂(とその廻りにいたスタッフ)は、ものすごいヒットメーカーだったと思うのだが、同時代の松田聖子や中森明菜、今井美樹なんかと比較すると、表現者としてのエゴの強さという意味では、極めて存在感が薄い。ヤマネコの様な眼力を持った美貌の一方、言動は極めておとなしかったり、ロマンチックだっりする。で、そんな彼女をこの時代の代表として私がまとめに持ってきた理由は「彼女は、その恵まれたルックスの一方、エゴの希薄さ、おとなしさ故に、依頼された仕事を断らなかった人だったのでは無いか。それが80年代の多様化した表現バリエーションを受け入れる結果となり、彼女は多面的で深みのあるイメージを形作ることに成功したのではないか」という仮説だ。
つまり、音楽業界の真の意味での表現者である、作詞家、作曲家、編曲家、プロデューサーあるいは音楽業界に限らず、テレビ番組の制作者や映画関係者にとっても、彼女は非常に使いたくて、使いやすい存在だったのだろうと思うわけです。70年代をくぐり抜けて、80年代の多様化した表現をまるごと飲み込んで表現してくれるヒロインを、業界は、時代は、求めたいた。その代表の1人が中山美穂だったのでは無いかと。デビュー間もないころに出演したキャンパス・コメディ・ドラマの彼女の役回りは、中学生にやらせる役柄としては、犯罪的なほど性的に過激である。だが、彼女はその役を受け入れて、こなした。その後、ヤンキー女子高生の役をこなしながら、徐々に、時代の代表するイケイケギャルへ移行、音楽的にはブラコン方面へ傾斜する。そして更に、強気な女の子が時折みせるフェミニンさへ、更に、ピュアな女性像、~アーチスティックな楽曲まで、結果、彼女は中高生ヤンキーアイドルから同性から共感を得る存在へと、見事な成長ストーリーを描く。それは、おそらく、彼女自身が意図したものではなく、彼女の背後にいた業界人が総意として描いたストーリーであり、時代が要請したストーリーであり、マーケティング的に非常に正しいストーリーだったのだと思う。(余談だが、この仕事をを断らないでどんどん飲み込むタイプの代表的芸能人として、山口百恵を思い出す。昨今では、実は壇蜜に似たようなものを感じる。)結果、彼女は人の代理で表現していたにもかかわらず、それらの創作物は彼女自身の表現作品として昇華される。自分自身が表現のためのメディアになり、しかも、それに徹しきれる。一見地味ではあるが、ものすごい才能であると思います。
80年代は、豊かな表現手法が出尽くしたかに見えて、その表現バリエーションの組み合わせで新しい世界観を描いた時代でもあった。音楽は、イデオロギーの表現手法からより精神性の希薄な"スタイル"へと移行した。~その傾向は、小室哲哉を生み、渋谷系を生む90年代へとつながっていく。~ この話はまた機会を改めて。
お付き合いありがとうございました。