漱石と三人の読者/学生と読む「三四郎」

 

高校時代に初めて読んだときから、長らく「三四郎」はわたしにとって謎だった。文豪・漱石による近代小説・青春小説の金字塔と言われながら、わたしにとっては話の展開が当たり前すぎて、その割に終わり方がなんか思わせぶりで、自分には読解しきれてない、気がついていない何かがあるのではないかという漠然とした疑問があった。

 

九州から上京した愚鈍な主人公・三四郎が、洗練された都会の女性・里見美禰子に恋をし、その謎めいた行動に翻弄され、失恋する・・・・言ってしまえば、そういう話である。美禰子は三四郎に対し誘惑ともとれる行動を取ったかと思うと、見下した言動をするなど、態度に終始一貫性がない。そして、最後はずいぶん年上の紳士との結婚を選ぶ。しかし、美禰子は幸せそうには見えない。失恋した三四郎は「Stray sheep」つぶやくところで、この話は終わる。

 

まだ若く大都会で迷える三四郎は言うまでも無く「Stray sheep」だが、この言葉は、美禰子に向けられたものでもある。美禰子も迷っていることはだけは解るのだが、ではその本心はというと、謎のまま、宙ぶらりんのまま、話は終わる。

 

四十年の時を経て、漱石研究と受験国語の分析で有名な、気鋭の大学教授である著者がこの謎を見事に解き明かしてくれた。~ 美禰子の本心は、三四郎の先輩・研究熱心で美禰子には目もくれない(様に見える)『野々宮への好意』であり、美禰子の行動は、結婚問題で煮え切らない『野々宮への挑発』である。

 

彼女の行動は、すべて野々宮の目からみたらどう思われるか、という尺度のなかで見ると、すべて説明がつくのである。 もとより、三四郎は美禰子の眼中にはない。繰り広げられる三四郎への誘惑=野々宮への挑発 という図式で説明がつく。そして、彼女が選んだ結婚は、『野々宮への復習』である。だがそれは、いたずらに野々宮、そして三四郎を傷つけただけの空しい行為に過ぎない。結婚後、美禰子は自分の気持ちにケリがつかないまま、迷い続けるだろう。そして、野々宮も。 (もちろん、三四郎もね。ついでみたいですが。)

 

なんと、このドラマの主人公は三四郎では無かったのだ。明治に誕生した自由恋愛が許されるインテリゲンチャ・ブルジョア層の恵まれた若者同士が、プライドの高さゆえその自由さを謳歌できず、すれ違いのまま結ばれずに終わるという話。 物語の本質的な主人公は美禰子と野々宮である。 

 

お見事! 眼から鱗です。 すばらしい読解です。たぶん、わたしがあと百回この三四郎を読んでも気がつかないでしょう。過去幾千万の読者も、どれ程の人がここに気づいて三四郎を読んできただろう。

 

しかし、どうして、石原先生はこんな事に気がつけるのか。

 

「小説家はいちばん書きたいことを隠して書く。」(「謎とき 村上春樹」 石原千秋 光文社新書)

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December 28, 2019

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